昭和二十五年五月、
流祖・春日とよ師の古希を祝う会が新橋演舞場で開催されたときのプログラム。
師匠宅の片付けをするなかで出てきました。
まだ、連合国軍占領下の日本です。
写真で見たことしかないけれど、松屋デパートや服部時計店はPXとして、日本橋あたりの焼け残ったビルなんかも接収されていて、歌舞伎座は修復工事中。
そんな中だったんだなぁ、と想像してみる。
会は大盛況だった、とのことだが、プログラムの用紙を見ると物資の不足がわかる。
出演者には中村吉右衛門(初代)の名前もある。
新橋の芸者衆も小唄振り(踊り)にたくさん出演している。
なかでも、
「梅川忠兵衛」は日本画家の伊東深水作詞、
西川鯉三郎振付 立方 まり千代 染福
新橋の大スター、そりゃ、見に行きたい人は多かったはず。
ちなみに戦前の女学生だった母の世代は、新橋の「東をどり」見物に駆けつけて、まり千代さんのブロマイドを買い漁っていたという。
他に「日本橋」上下も伊東深水作詞。
これも、このとき新作の小唄で今も唄つがれていますが、まあ、とっても難しいです。
小唄について、
明治大正期のことを書いたものを読んでいると、
江戸時代を引きずりながら明治に生きた人々が西洋を受け入れながらも、日本の伝統芸能をたのしみ、工夫して、なかでも花柳界という土壌によって育てられた小唄が洗練されていく様子がよくわかる。
大衆向きではない通人に好まれた小唄がだんだん流行りとなって、小唄振りが踊られるようになった頃には「そんなの小唄とは言えない」と通人からは批判の声も多かったらしい。
とよ師も小唄のレコードを吹き込むときに売れるわけないと思っていたそうです。
日本中の花柳界など飛び回って弟子が増え、なかに市丸さんや小梅さんという小唄のスター歌手も生まれました。
昭和が終わり二十一世紀を迎え、花柳界は元の役割を終えて、小唄もそろそろ絶滅するかという令和の世。
自分自身もだいぶ古くなったなぁ、と思いつつ、小唄の楽しみを続けています。